STYLEでは僕は優勝どころかファイナルにも進めなかったのです。当時の僕としては「なんで!?」という思いがいっぱいで、必ず見返してやるぞ、というような悔し紛れなメールをETIC.に送りつけたような恥ずかしい記憶があります。というのは、僕は大学3年の頃からソフトウェア開発会社を経営し、そこで散々苦渋をなめた経験があったので、ビジネススキルということでは同世代を完全に凌駕しているという自負が、当時の僕にはあったためです。けれどもメンターの方々の僕に対する反応を見ると、これが不思議。「余り『知』に溺れないように」「ロジカルだし特に指摘するところもないけれども、何か足りない」とけんもほろろなのです。一方で僕からすると単なるアイディアに過ぎないと思えるようなプランが、喝采を浴びているのを見ているわけです。
この差はなんだ、と。当時の僕は気づいていませんでした。「ピュアビジネス」の世界と、「社会問題を解決するビジネス」の世界のルールの違いを。後者の「社会問題を解決するビジネス」の扱う領域、すなわち複雑な時代を生きる我々の「問題」とは、社会の複雑性を反映し、自ずと複合的なものになります。複合的な問題にはそれぞれ複数の利害関係者が絡みつき、より一層問題を一筋縄ではいかなくさせています。そういう問題はそうそう一人が頑張ってもどうにもならないような場合が多いのです。その中で大切なのは「共感性」です。複数の利害関係者や外部の人々が共感し、「動いて」くれること。一人の力は微弱であるが、多くの人が巻き込まれた場合、地滑り的に問題が解決されていくのです。
さてその「共感性」はいずこから生まれてくるのでしょうか。それは自分自身の中から滲み出てくるのです。意外ですよね。自分の「プランから」ではなく、「自分自身から」なのです。それを当時の僕は理解しておらず、プランの戦略性と緻密性のみに目を向けていました。その「共感性」を獲得するための自己の研磨に対して目を開かせてくれたきっかけが、このSTYLEでの敗北だった、と今思うことができます。
最後にこれから自ら動こうという「同志」の皆さんに何らか貢献するようなことを言えたらと思いますが、ひとつエピソードがあります。まだ大学生であった頃、著名な社会学者である宮台真司先生に、初対面なのに飲み会で議論を吹っかける、という無謀なことをした経験があります。そこで僕は「社会学者は社会のことを分かったような口を利くが、社会を変える力なんてないじゃないか。社会を変えるのは行動であり、情熱だ。」と食って掛かったのです。無教養な僕の目を先生はまっすぐ見つめ、言いました。「君の言うことは確かに正しい。しかし半分だけだ。私達の生きるこの社会は大変に複雑で、社会問題は相当複合的だ。例えば貧困一つをとってしても、貧困にあえぐ第三諸国の国民自ら、自分達を搾取するグローバリゼーションという仕組みに『自ら進んで』参加している。決して単純な善悪や疎外の議論では答えがでない。」先生は続けます。「確かに君の言うように情熱や行動は非常に大切だ。しかしながら純粋な情熱と『いいことをしよう』という行動だけではその複雑な問題を超えるどころか、その仕組みを延命させてしまうことに繋がることだってある。」そして最後にこう仰いました「情熱とともに、『徹底した思索』によって、糸口を見つけるんだ。」勉強してない僕は後で知ったのですが、宮台先生は多くの著作を世に送り出しつつも、自らロビー活動なども行っている「行動する学者」でした。
複雑な社会問題に対して、私達若者はその正義感と自己実現の可能性だけで飛び込んでしまい、「いいこと」をする自分に気持ちよくなってしまいます。けれどもそれだけでは多くの場合社会に「絡め取られて」しまいますし、また論理や机上の計算だけが先行する「コンサルもどきな学生」(かつての僕)になってしまっても、社会に地滑りを起こす「共感」は得られません。右手に「熱き情熱」を、そして左手に「徹底した思索」を持って、社会に自らを投げ込んでいきましょう。僕やあなたの生きる社会を、まさに生きるに値する社会に変えるべく。
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